原子力の国、日本 ―技術への盲信

原子力の国、日本 ―技術への盲信 (Süddeutsche Zeitung, 3月13日)
筆者:Christoph Neidhart

日本は原子爆弾を投下された唯一の国である。原子力のトラウマを持つにも関わらず、これまで原子力発電に関する議論がまともになされてこなかった。戦後期に生じたテクノロジーに対する盲目的な信頼は、これまで反省されてこなかった。今の今まで。

日本ほど核武装を明確に否定している事で有名な国はない。しかし同時に、これほど原子力に信頼をおいている国もない。そして、これほど熱心に自国の原子力技術を他国に売り込んでいる政府もない。東京の政府は首長にいたるまで、この矛盾を全く認めなかった。CO2を排出しないので、原子力発電は「グリーン・エネルギー」であると思っていたのだ。これまで危険性を主張する者に対しては、怒りをもって次のように答えていた「原子力発電所は安全です。絶対に。」日本人の大半はこれを受け入れていた。原子力の事故が、地域全体を何世紀もわたって人の住めない場所にし得るという事を、多くの人々は認めたがらなかったか、あるいは本当に意識していなかった。

現時点で、日本は原子爆弾で被害を受けた唯一の国である。米軍の原爆投下は広島と長崎で約15万人を一瞬で死に至らしめた。少なくともその後数週間から数年間の間に大勢の人々が亡くなり、被爆が原因で大半はゆっくりと苦悶しながら亡くなった。原爆の犠牲者として、42万人もの日本人が「被爆者」と認められた。広島と長崎の恐怖は、犠牲者としての日本という自己像を形成した。

日本はこのような原子力による悪夢を経験したものの、すでに1954年にはアメリカの支援をもとに原子力発電の計画を始めた。当時、すべてが可能であると思われ、テクノロジーに対する信奉は限りなく広まっていた。そして戦争によって打ちのめされ、自信を喪失していた日本は、少なくともテクノロジーによって再び世界の頂点を目指していた。1966年、最初の原子炉が送電線につながれた。現在、原子炉は55存在し、最新のものではウランとプルトニウムを混合した核燃料を用いている(MOX燃料)。そのために、現在日本は地球の反対側へプルトニウムを輸送している。環境保護団体は、この事を乱暴で軽率な行為であるとみなしている。日本は電力の30%を原子力エネルギーに頼っている。そしてこの比率は今後も上がるだろう。2機の原子炉が建設中であり、11機が計画中である。また高速増殖炉の試用もなされている。

この次世代型の原子力エネルギーは1970年代から商業利用にむけて走りだした。しかし多くの問題を抱えているので、この技術は2050年より前には完成しないであろうと思われていた。それにもかかわらず、他の選択肢など無いかのように、東京は原子力発電にこだわり、しがみついていた。日本の風力タービン製造者が不平を述べている間、政府はノルマすら設定しなかった。そして日本の太陽光発電は、一度は世界のパイオニアとなったものの、現在ではその優位性を失っている。

日本は核兵器保有していない。しかし、短時間で核兵器を作る技術を持っている。よって日本は原子力エネルギーに完全に依存した原子力の国である。そしてこの依存はどんどん強まっている。それゆえ政治は原子力産業と密着している。

そもそも日本の原子力発電所は、最大でマグニチュード7.75の地震を想定して設計されており、今回の仙台で起きたマグニチュード9の揺れというものは単純に想定されていなかった。もっとも、四年前に起きた柏崎における マグニチュード6.6の地震では、原発が不気味な損傷を被った。今回福島では、3つの冷却用の安全装置がすべて壊れた。このような大失敗が起こることを、設計者はありえないと考え、何の対策もしていなかった。安全対策が不十分であるにも関わらず、TEPCOは2002年に政府がすでに指摘したように、組織が腐敗していた。200件以上の事象で、TEPCOは安全性に関する記録を改ざんした。また、増殖炉におけるミスが狙い通りもみ消された。

日本は民主主義の国であるが、選挙による政府のコントロールはこれまで殆ど機能してこなかった。2年前に初めて民主党が政権を握り、多少の前進は見られた。それまでは能力のない崩壊した政党が支持されていた。日本の政治に強く求められているペレストロイカは、まだ始まったばかりである。

民主主義の中では、メディアが重要な役割を果たす。日本のメディアはこれがない。メディアが権力者をコントロールすることは、選挙と同じように殆ど無い。彼らはせいぜい汚職のスキャンダルを暴こうとするだけである。批判的な視点を持つ市民(政府と産業に疑いの目を持つ人々)は、メディアを作り出してこなかった。それでもこのシステムの端のほうに、多くの日本人からは相手にされなかったが、努力を重ねてきた人々がいた。この人々の活動は、これまでの日本の反原発運動に多くの情報を与えてきた。しかし彼らのデモは大変小規模で、傾聴されなかった。にもかかわらず、まるで「原子力の国」に生きている彼らは、警察からの監視と追跡を受けている。

日本では、いままで原子力に関する議論が一度もなされてこなかった。同じく政治家の間でも、1950年代からつづく原子力に対する強い盲信は今日まで続いていた。日本はヨーロッパやアメリカと違い、ハリスバーグチェルノブイリでの事故ですら原子力エネルギーを止めるきっかけにならなかった。

人気の無い菅政権は、現在この甚大なカタストロフィに直面している。彼らは地震発生当時、方向感覚を失い麻痺しているように見えた。現在、彼らは1945年以降で最悪の事態に直面している国を導かねばならない。彼らにできるだろうか?チェルノブイリにおける事故は、 ソビエト連邦の壊れ麻痺した政治制度の崩壊を早めた。


メディア: Süddeutsche Zeitung (2011年3月13日)
原題: Atomstaat Japan ―Der blinde Glaube an die Technik
筆者: Christoph Neidhart
原文ソース:
http://www.sueddeutsche.de/politik/atomstaat-japan-der-blinde-glaube-an-die-technik-1.1071520
日本語訳: 大谷悠