ケヴィン・リンチ『廃棄の文化誌』を読んで考えた事

廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ

廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ

 知らなかった、ケヴィン・リンチがこんな本出していたなんて。不覚だった。
 1990年に出版された原書"Wasting Away"は、リンチの遺稿だそうだ(リンチは1984年没。弟子のM.サウスワースが不完全な原稿を編集して出版した)。
 「廃棄(wasting)」に着目する事でリンチは何が言いたかったのか。資本主義の肥大化、大量生産=大量消費に対する警鐘、その空間的象徴としての廃棄された空間、とかだったら面白くないなぁと思いつつ手に取った本書、表紙をめくって扉に引用されたリンチの言葉に驚いた。
「廃棄された多くの場所にも、廃墟と同じように、さまざまな魅力がある。管理から解放され、行動や空想を求める自由な戯れや、さまざま豊かな感動がある。」(P.2,P.50)

 さらにリンチは、(廃棄された場所のような)管理されていない場所は、しなやかな社会に必要不可欠な要素であるとすら語っている(P.52)。以下のの文章など、まさに公共空間としての廃棄された場所の可能性を示唆していると言えよう。

 「廃棄された土地は、絶望の場所である。しかし同時に、残存生物を保護し、新しいモノ、新しい宗教、新しい政治、生まれて間もなくか弱いものを保護する。廃棄された土地は、夢を実現する場所であり、反社会的行為の場所であり、探検と成長の場所でもある」(P.201)

 こんなにいきいきと廃棄された場所を語る「都市計画(家)の本」などいままで出会った事が無かった。いや、もはやこれは都市計画の範疇におさまるモノではない。なぜなら「廃棄された場所」は、都市「計画」の範疇からこぼれた場所だからだ。『都市のイメージ』で都市に「生きる側」の視点に注目したパイオニア的存在であったリンチは、ここにいたって都市計画という分野を完全に飛び越えた地点から発言している。

 社会からは黙殺されがちな「廃棄された場所」に正面から注目するということは、必ず人の営みの暗部、社会の底に蠢くものを注視する事につながる。それは結構難しい。「新品の場所」にくらべ「廃棄された場所」にはいろんな垢がこびりついているからだ。多くの人々は関わりたくないと思うだろう。しかし都市に関わる者はそこから逃げてはならないし、じつはそこに面白みや希望もあるんだという事を感じさせてくれた本だった。(同時に「廃棄された場所」に<無責任に>惹かれるメンタリティにも、今後は着目していくべきだろうが。)「廃棄された場所」はもっとも社会を映す場所だ。ならば「廃棄された場所」を通じて社会へ働きかける事だってできるはずだ。私はこの本にとても励まされた。
 未完に終わったのは残念だ。「廃棄された場所」を社会にリンクさせるリンチのアイディアをもっと聞きたかった。しかし、この次のステップは我々が担う宿題なんだと考えるべきだろう。やりがいのある宿題じゃないか。