都市の「間」の豊かな「生活」

ワークショップも終わりまして、いまドキュメントのまとめ作業中です。そのなかであとがき用に書いた文ができたので載せます。

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いきなり私的な話で申し訳ないのですが、東京の杉並区に生まれ育った私は、子供の頃から東京という都市の窮屈さを身にしみて体験してきました。どこまでも続く住宅地。公園は綺麗すぎるほどに整備され、狭苦しくネットに囲われた鳥かごのような所でしかボールで遊べない。屋敷跡の広い空地は瞬く間にミニ開発でアパートになり、自然公園の「自然」を満喫しようにも、「歩道から出るな!」と自然を「管理」するおっちゃんにどやされる。唯一自然らしい自然の残っていた神社で木のぼりやら野球やらしていると、駐車してある高級外車にボールをぶつけられてはタマランとカンカンになった神主が学校に怒鳴りこんでくる始末。それでも、懲りずに遊んでいました。家と家を隔てる塀をつたって近隣の家の庭を探検してみたり、休みの日に工事現場に侵入して鉄パイプをバットに野球してみたり、雑居ビルの屋上で麻雀してみたり。それは、言ってみれば都市空間に「自由」を求める戦いだったのです。「用途」でがんじがらめにされた都市空間に「隙間」を見つけて入り込む実践です。だから様々な縁があってライプツィヒに引っ越してきた時、なんて遊べる空間のたくさんある街なんだろうと思いました。これだけの規模の都市に、これだけ自由に使える空間が残っているという事は、私から見ると贅沢極まりないこと。空き家に住み着いてプロジェクトを始めたのも、都市の「間」に起こっている事に注目するようになったのも、それをテーマにワークショップをやろうと思い至ったのもまったく自然な流れでした。

ライプツィヒでは、都市の縮小によって出現した都市の「間」に、ミクロだけど豊かな空間が住民たちの手によって生み出されています。地域の農園、子どもの遊び場、アーティスト達のたまり場、これらは、「消費の空間」とも「労働の空間」とも違う、「生活の空間」であって、資本や権力にまかせていては生まれてこない、おおらかな空間です。人は、自らの手で「生活」を取り戻し、豊かな「空間」を生み出す能力があるのだという事を実感するとき、私はいつも60年代の都市社会学アンリ・ルフェーヴルのメッセージを思い出します。彼はパリ五月革命の体験から「都市への権利」と「空間の生産」という重要なキーワードを残しました。それは、都市空間は政治家のものでも、都市計画家のものでも、資本家のものでもなく、「われわれ、都市に生きる者のもの」であり、「都市に生きるものなら誰しも、空間を生み出し、使い込む能力と権利がある」というものです。私自身、ライプツィヒの空き家に暮らし仲間と共にプロジェクトを進めていく上で、「空間をつくる実践」は、人間の「生活力」と深く結びついていると実感しました。これは自分たちの生活に必要な物と空間を自分たちで作るという力、またネットワークを広げコミュニティをつくる力であって、現代社会ではわすれられがちですが、我々が本来もつ基本的な能力といえると思います。

都市の縮小を、ポジティブに捉えることは容易ではありません。縮小を受け入れろとか、成長の時代は終わったとか、口では簡単に言えるでしょうが、これまでの発展・拡大・開発というテーゼを失って、果たして我々、特に都市の現場に関わる者は何を考え、具体的に何を実践すればいいのか。わずかに残された「成長」にしがみついて今までどおり食いつなぐ、というのも一つの道でしょう。しかしもっと根本的な部分を問いなおさねば、未来は開けません。ライプツィヒでは、都市の「間」が土壌となって人々の「生活力」が開花し、それによって生み出されるミクロな「生活の空間」が互いにネットワークすることで、都市のキャラクターを独特なものにしています。人々の「生活」を取り戻す実践と、「縮小」をいち早く受け入れて住民らの実践をサポートしている中間団体や行政サイドの思想は、我々に大きなヒントを与えてくれます。今回のワークショップを通じて、豊かな空間とはなにか、豊かな生活とはなにか、という事を考えるきっかけに少しでもなれば幸いです。






庶民の「豊かさ」と「生活力」

ドイツに来て2年、いろんな人に会いました。その中で感じたことは、決して金持ちでは無い庶民の生活が、とても「豊か」であるということです。

私が去年までドレスデンで住んでいた家はWohngemeinschaft(WGと略します)という、ルームシェアの物件でした。私のところは5人で住んでたんですけど、個々人は個室だけあって、トイレ・風呂・キッチンは共同というものです。WGはドイツ(特に東ドイツ?)ではとても典型的な都市住居の方法で、20代〜30代前半の若い人の多くがWGに住んでいます。私の住んでいたWGをオーガナイズしてる人は45歳くらいのおじさんなんですが、彼は大変に面倒見の良い人で、他のメンバーを気にかけたり、家中掃除したり工事したりと毎日忙しくしています。地下室に自分専用の工房を持っていて、家具やら物やらいろいろと作ってます。今はオリジナルチェスを作るのに躍起のようです。あと彼はやたらと近所に沢山友達がいて、週末には仲間と中庭や工房でパーティーをしたり、自転車で森を走り回ったりしています。あとの時間は、玄関先に自分で造ったデッキで、ワインを飲みながらのんびりとくつろいでます。彼は、元ヒッピーです。若い時は住めるように改造したバンでドイツ中を旅して回っていたそうです。

そんな事もあり、彼は昔から特に定職についてません。生活費をどう捻出しているのか、謎なことが多いのですが、どうも友達の家の改装を手伝ったり、W.G.の予算から清掃・工事代として多少収入を得ているようです。あとの収入源は、今日本で話題の、政府からの生活支援です。定職につくと今の生活が時間的にできなくなってしまうので嫌みたいですが、職を探していないと生活支援が受けられなくなってしまうので、時々訓練学校とかに通っていたりします。なので彼は役所と折衝することが多いらしく、私がビザの件でちょっとトラブルがあった時も、いろいろとワザを駆使して、手伝ってくれました。

彼を見ていると、彼はもちろん決してお金持ちでは無いんですが、豊かな生活をしてるなーと思うのです。友達がたくさんいて、自分で好きな物をつくり、人生を楽しんでいるように見えるのです。自分のペースで、自分の方法で、自分の人生を歩んでいるなぁという感じがあります。ドレスデンのノイシュタットという地域は、彼のような(元)ヒッピーや、パンクス、アナーキスト、アーティスト、環境志向の人、学生と若い研究職の人などが多く住んでいて、彼らがこの街の自由で独特な雰囲気を作っているようです。

今、日本では生活保護の問題で色々ともめていますが、私は不正受給の問題より、人々の価値観の問題が大きいと思うのです。日本だとどうしても豊か=金・物・サービスとなってしまいがちで、そういう価値観が金持ちだけでなく庶民にまで蔓延していることが、不幸の原因だと思うのです。たとえば、日本で生活保護受けたいという人が「子どもをディズニーランドにもつれていってやれない」って言ってたことに対して「贅沢言うな!」とネットが吹き上がっていたみたいですが、「ディズニーランドに行かないと幸福になれない」という感覚がそもそもまずい。いやね、ディズニーランド好きでもいいんですよ、私もすごい空間だなぁと思いますし、すごいサービスのクオリティですしね。でも他にも楽しいこと、自分で探して見ませんか?ということです。自分でなにか作るっていうのはそういう時とても良い。大概買うよりお金もかからないし、なにより自分の生活が豊かになります。畑仕事とか、DIYとか、成果が自分の生活に返って来ます。「ディズニー?あんなとこで一日人ごみにまみれて散財するくらいなら、近所で野菜作ってたほうが楽しいわよ」っていう人が増えると、日本もいろいろ変わると思うんですよね。

ちょっと大きい話にすると、そういう人々の「生活力」が、自治とかまちづくりに自然に繋がるんじゃないかと感じています。自分達の事は自分達でする、というのはものすごく基本的な自治の考え方だと思うんですが、いままで行政に任せて文句だけ言ってた状態から自分らでやるようになることで、問題もダイレクトに見えてくるし、あと自分たちで決めたり何か作ったりするのっては面倒くさそうだけど、実はとても楽しいんですよね。(その意味では、まちづくりはそもそも自治なわけで、行政のまちづくり課の人がワークショップを当たり障り無いような結論に持っていくように影で仕切ってる状態って本当は本末転倒というか、すごくおかしいんですよね。これは行政の責任と言うよりも、日本社会の問題だと思いますが)

そういう感じの問題意識をもちつつ、これからブログでちょいちょい私の住んでいる地域で起こっている様々なまちづくり・空間再生・自治の取り組みについて書いていこうと思います。(宣言しないとやらなくなるので宣言します!)私は今ライプツィヒ「日本の家」という空き家再生プロジェクトをやってるんですが、まずはこの活動を通じて考えたことや、出会った様々な人やプロジェクトを紹介していこうと思います。

※日本の家ではライプツィヒ空き家再生ワークショップ ―都市の「間」というワークショップを企画中です。こちらのブログにてライプツィヒの様々なまちづくり、空き家・空き地再生、自治のプロジェクトについて紹介していきます。ご興味のある方はぜひチェックしてみてください!



WGメンバーデッキで夕食中


キッチン


秋の外観

Photos by Tomoko Katsumata

小さな町の芸術祭:PARADIESISCHES PLESSA Mit Blumen, Licht und Musik

2010年9月11日、私はPlessaというブランデンブルグ州の小さな町で、”PARADIESISCHES PLESSA Mit Blumen, Licht und Musik”というIBAのプロジェクトに参加しました。これは修士論文のときにインタビューしたJ.モンタルタ氏の率いるPradies2という住民参加型芸術祭の一環です。ちょっと長くなりますが報告します。


> 芸術祭当日の様子


KULTURHAUS PLESSAという市民ホールの前庭に造られた、参加者が持ち寄った花でできた「花の海」




ホールや前庭で行われたコーラスやブラスバンドのミニコンサート





夕方から参加者全員で行進しながらつくった「光の道」



行進の終着点は町のシンボルである旧火力発電所




発電所内部では光と音のパフォーマンスが行われた
©IBA See 他の写真 

当日は天候にも恵まれ、人口3000人の町に5000人以上の人々が集まりました。


>「音」でつながった
私はIBAのメンバーとして6月頃からこのプロジェクトに参加したのですが、 最初は本当にコミュニケーションに苦労しました。日本ですらまちづくりや参加型プロジェクトって意思疎通で苦労するのに、まして言葉が不自由だとほんとにつらい。 当時私のドイツ語は全く使い物になるレベルではなく、東ドイツの田舎町でまったく英語も通じず、最初の頃は「何しに来たんだ、このアジア人は?」という感じで見られ、またそういう風に対応されると私もビビってしまいました。 同僚とモンタルタ氏に本当に色々と助けられつつ、どっかに自分が入り込めるところは無いかと画策し、見つけたのが「音」の分野でした。

Plessaは小さな町であるにも関わらず、炭坑マンのブラスバンドコーラス隊、市民のブラスバンド、コーラス隊がそれぞれあり、今でも盛んに活動しています。どんな小さな町にも、音楽が文化の一部として深く根づいているのはドイツの特徴でしょう。私は彼らと一緒に、光の道のBGMを作りました。演奏スキルは高くなく、プロの音楽家は一人もいない中で、知恵を出し合い、光の道の雰囲気に合い尚且つ演奏可能なBGMを一緒に考えて作っていきました。当日のアンサンブルには子供からおじいちゃんまで参加して、とてもすてきな風景でした。私自身もリコーダーで参加しました。


また発電所の中の音響計画も担当しました。最初は何か音楽をスピーカーで流せば良いんじゃないかと工場のオーナーに言われていたのですが、それじゃ面白くないなと感じ、あるとき発電所の柱や巨大なダクトなど、工場内に残されている物を叩いて鳴らす事を思いつきました。柱や機械を叩くと、発電所内部の教会のような音響空間に図太いメタルの振動音が響きわたり、信じられない音が出るのです。ただ発電所文化財で、これを叩くというアイディアは受け入れてもらえるかなと心配でしたが、オーナーやモンタルタ氏に非常に気に入ってもらえ、実現できました。「発電所の心音」をコンセプトに、当日は予想より遙かに長く、30分間たたき続け、手の皮ははがれるわ意識が朦朧とするわで死ぬかと思いましたが、なんとか叩ききりました。このドラミングは地元の人々と参加者の反応も大変良く、「斬新だ」「発電所の力強さを音で表現している」と多くの反響を頂きました。

一方、ある女性からは「これは発電所で私が聞いていた音じゃない。当時の機械音を流すべきだ。」という意見がありました。彼女はDDR時代に発電所で長らく務めていた方で、自らの仕事場を心から愛し、工場のすべてを熟知していました。なるほどそうか、と思いつつ私は「発電所はもう動いていない。動いていないものを動いているように"偽装"するより、発電所が動かなくなったからこそ出来る、この空間の新たな可能性を音で提示したい」という旨のことを言ってすこし議論しました。 私が産業遺産を活用すべき「資源」として扱うことに対して、現役時代の発電所を知っている世代の人々に違和感が生じた瞬間でした。 最終的に私のアイディアは理解してもらえましたが、様々なパースペクティブが交差する産業遺産ならではの論点だったのだと思います。


> コミュニケーションとしてのアート
このように、私は音楽という芸術のおかげで、なんとかプロジェクトに関わり、住民の人々とつながり、一緒に考え、感情を共有し、新たな事を提案することが出来ました。今回身にしみて実感したことは、芸術は決して芸術家だけのものではないということです。 Plessaにおける花壇、テーブルデザイン、蝋燭や松明、音楽、全て住民の人々とIBAのメンバーによる手作りで、いわゆるアーティストや業者などのプロは入っていません。「なにか面白いことを、新しいことをやりたい」という人々の意欲が、このクオリティとクリエイティビティを生み出したのです。「アートでまちづくり」の味噌はまさにそこにあり、著名な芸術家を町に呼んできてなにか作ってもらってありがたがることは全然別なのです。

その意味で、やはり面白かったのは、このプロジェクトにおける唯一の芸術家、モンタルタ氏の立ち位置でした。彼は自ら物を作ったり提案することはほとんどしません。大きなコンセプトだけ提案しますが、個々のデザインに口出しはしません。彼は話し合いを通じて人々のモチベーションをたかめ、コミュニケーション可能な状態にしてアイディアが生み出される土台を作っていました。実際、はじめの頃は大変シャイで発言するのをためらっていた住民の多くも、話し合いを重ねるごとに次第に自らのアイディアや町に対する思いを積極的に話すようになっていき、さらに自発的に作業グループを作るまでに至りました。(具体的な話し合いの方法については以前書きましたこちらの記事を見てください。)私は彼を見ていて、何度もアーレントの「ペルソナ」や「パースペクティブ」の話を思い出しました。(彼のプロフェッションが演劇の演出家だというのも「ペルソナ」の話と偶然ではないような気がします)話し合いを通じて、彼はある種の公共空間を創りだしていたのだと思います。

今回の経験で、まちづくりにおけるアートの本質は、完成された作品というよりはコミュニケーションなのだと感じました。これは一緒に考え、 一緒に作るというシンプルな事です。アートはきっかけであってゴールではありません。そしてアートのもつ人の「感性」に訴える力こそ、それぞれの立場を超えて人々をつなぐのだと強く実感しました。


このプロジェクトについて報じる地元新聞(Lausitzer Rundschau)モンタルタ氏と私


---リンク---
・Paradies2(公式)
・PARADIESISCHES PLESSA(公式)
・地元紙LausitzerRundschauの記事
・Jürg Montalta氏のwebサイト

ザクセン州首相 スタニスラフ・ティリッヒ インタビュー



ザクセン州首相 スタニスラフ・ティリッヒ インタビュー「我々はさらに多くの褐炭を必要としている」(RP Online, 4月16日)


ザクセン州首相のスタニスラフ・ティリッヒ(Stanislaw Tillich:キリスト教民主同盟)は、原子力発電からの撤退の代償として、褐炭発電を強力に支持する事を表明した。氏は「褐炭エネルギーという基礎のおかげで十分な電力が供給される」と述べた。このCDUの政治家は、我々のインタビューに対し、脱・原子力エネルギーの出口について語った。


----現在のドイツはエネルギーの転換期にあるとお考えですか?

ティリヒ:原子力エネルギーからの脱却を目指すということは、社会的な合意事項です。ですので唯一の問題は、脱原発をどれくらいの速度で行い、どのような段階を踏んで再生可能エネルギーと最新鋭の化石燃料に切り替えていくかということです。我々は、経済と家庭にとって支払える電気料金を維持したいと考えています。


----どのように切り替えていけるでしょうか?

ティリヒ:我々はとりわけ、国際市場における価格競争で勝ち抜ける電力を供給するために、新たな技術を開発していかなくてはなりません。原子力エネルギーからの撤退が決定された現在、それは風力発電の新設だけでは不十分です。我々は、褐炭のような地元で産出される資源を用いた発電技術の開発をさらに進めるべきなのです。褐炭という基礎があるおかげで、十分な電力を生産できるのです。


----風力発電の新設と大規模な送電システムの建設は、今日抵抗を受けています。

ティリヒ:もし我々が、輸入に頼らずに資源を調達し、自前でエネルギーを生産したいと考えるのであれば、我々は難問に取り組まなければなりません。いずれにしても、これからドイツにおいてはより多くの風力発電と新たな送電システムを建設せねばなりません。これは避けることのできないことです。そのための同意もまた、得られなければなりません。


----SPDと協調した国のエネルギー・コンセンサスは成功するでしょうか?

ティリヒ:我々は今日、国のエネルギー・コンセンサスのための重要な前提条件を確立しました。我々は原子力発電から撤退する道を選んだのです。問題は、どれくらいのスピードで、どのような道筋を辿ってこれを実行するかですが、これについてはまだ議論が残っています。



メディア: RP Online (2011年 4月16日)

原題: Interview mit Sachsens Ministerpräsident
-Tillich: "Wir brauchen mehr Braunkohle"-

原文ソース:
http://www.rp-online.de/politik/deutschland/Tillich-Wir-brauchen-mehr-Braunkohle_aid_988367.html

日本語訳: 大谷悠

原子力の国、日本 ―技術への盲信

原子力の国、日本 ―技術への盲信 (Süddeutsche Zeitung, 3月13日)
筆者:Christoph Neidhart

日本は原子爆弾を投下された唯一の国である。原子力のトラウマを持つにも関わらず、これまで原子力発電に関する議論がまともになされてこなかった。戦後期に生じたテクノロジーに対する盲目的な信頼は、これまで反省されてこなかった。今の今まで。

日本ほど核武装を明確に否定している事で有名な国はない。しかし同時に、これほど原子力に信頼をおいている国もない。そして、これほど熱心に自国の原子力技術を他国に売り込んでいる政府もない。東京の政府は首長にいたるまで、この矛盾を全く認めなかった。CO2を排出しないので、原子力発電は「グリーン・エネルギー」であると思っていたのだ。これまで危険性を主張する者に対しては、怒りをもって次のように答えていた「原子力発電所は安全です。絶対に。」日本人の大半はこれを受け入れていた。原子力の事故が、地域全体を何世紀もわたって人の住めない場所にし得るという事を、多くの人々は認めたがらなかったか、あるいは本当に意識していなかった。

現時点で、日本は原子爆弾で被害を受けた唯一の国である。米軍の原爆投下は広島と長崎で約15万人を一瞬で死に至らしめた。少なくともその後数週間から数年間の間に大勢の人々が亡くなり、被爆が原因で大半はゆっくりと苦悶しながら亡くなった。原爆の犠牲者として、42万人もの日本人が「被爆者」と認められた。広島と長崎の恐怖は、犠牲者としての日本という自己像を形成した。

日本はこのような原子力による悪夢を経験したものの、すでに1954年にはアメリカの支援をもとに原子力発電の計画を始めた。当時、すべてが可能であると思われ、テクノロジーに対する信奉は限りなく広まっていた。そして戦争によって打ちのめされ、自信を喪失していた日本は、少なくともテクノロジーによって再び世界の頂点を目指していた。1966年、最初の原子炉が送電線につながれた。現在、原子炉は55存在し、最新のものではウランとプルトニウムを混合した核燃料を用いている(MOX燃料)。そのために、現在日本は地球の反対側へプルトニウムを輸送している。環境保護団体は、この事を乱暴で軽率な行為であるとみなしている。日本は電力の30%を原子力エネルギーに頼っている。そしてこの比率は今後も上がるだろう。2機の原子炉が建設中であり、11機が計画中である。また高速増殖炉の試用もなされている。

この次世代型の原子力エネルギーは1970年代から商業利用にむけて走りだした。しかし多くの問題を抱えているので、この技術は2050年より前には完成しないであろうと思われていた。それにもかかわらず、他の選択肢など無いかのように、東京は原子力発電にこだわり、しがみついていた。日本の風力タービン製造者が不平を述べている間、政府はノルマすら設定しなかった。そして日本の太陽光発電は、一度は世界のパイオニアとなったものの、現在ではその優位性を失っている。

日本は核兵器保有していない。しかし、短時間で核兵器を作る技術を持っている。よって日本は原子力エネルギーに完全に依存した原子力の国である。そしてこの依存はどんどん強まっている。それゆえ政治は原子力産業と密着している。

そもそも日本の原子力発電所は、最大でマグニチュード7.75の地震を想定して設計されており、今回の仙台で起きたマグニチュード9の揺れというものは単純に想定されていなかった。もっとも、四年前に起きた柏崎における マグニチュード6.6の地震では、原発が不気味な損傷を被った。今回福島では、3つの冷却用の安全装置がすべて壊れた。このような大失敗が起こることを、設計者はありえないと考え、何の対策もしていなかった。安全対策が不十分であるにも関わらず、TEPCOは2002年に政府がすでに指摘したように、組織が腐敗していた。200件以上の事象で、TEPCOは安全性に関する記録を改ざんした。また、増殖炉におけるミスが狙い通りもみ消された。

日本は民主主義の国であるが、選挙による政府のコントロールはこれまで殆ど機能してこなかった。2年前に初めて民主党が政権を握り、多少の前進は見られた。それまでは能力のない崩壊した政党が支持されていた。日本の政治に強く求められているペレストロイカは、まだ始まったばかりである。

民主主義の中では、メディアが重要な役割を果たす。日本のメディアはこれがない。メディアが権力者をコントロールすることは、選挙と同じように殆ど無い。彼らはせいぜい汚職のスキャンダルを暴こうとするだけである。批判的な視点を持つ市民(政府と産業に疑いの目を持つ人々)は、メディアを作り出してこなかった。それでもこのシステムの端のほうに、多くの日本人からは相手にされなかったが、努力を重ねてきた人々がいた。この人々の活動は、これまでの日本の反原発運動に多くの情報を与えてきた。しかし彼らのデモは大変小規模で、傾聴されなかった。にもかかわらず、まるで「原子力の国」に生きている彼らは、警察からの監視と追跡を受けている。

日本では、いままで原子力に関する議論が一度もなされてこなかった。同じく政治家の間でも、1950年代からつづく原子力に対する強い盲信は今日まで続いていた。日本はヨーロッパやアメリカと違い、ハリスバーグチェルノブイリでの事故ですら原子力エネルギーを止めるきっかけにならなかった。

人気の無い菅政権は、現在この甚大なカタストロフィに直面している。彼らは地震発生当時、方向感覚を失い麻痺しているように見えた。現在、彼らは1945年以降で最悪の事態に直面している国を導かねばならない。彼らにできるだろうか?チェルノブイリにおける事故は、 ソビエト連邦の壊れ麻痺した政治制度の崩壊を早めた。


メディア: Süddeutsche Zeitung (2011年3月13日)
原題: Atomstaat Japan ―Der blinde Glaube an die Technik
筆者: Christoph Neidhart
原文ソース:
http://www.sueddeutsche.de/politik/atomstaat-japan-der-blinde-glaube-an-die-technik-1.1071520
日本語訳: 大谷悠

IBAのもつ"建築マインド"


Theorie des Schweizer Architekten und Publizisten Alfred Roth, veröffentlicht 1949

IBA Fürst-Pückler-LandのチーフであるRolf Kuhn氏が、IBAに関するプレゼンの冒頭で必ず紹介するダイアグラム。
スイスの建築家アルフレッド・ロース(Alfred Roth)が1949年に描いたものだ。(ラウムプランでおなじみのロースとは別人)

ロースは建築を川を下るボートに例えている。上の岸は"irrational (Gefühl)"=非合理性(感性)で、Idee, Kunst, Philosophie=観念、芸術、哲学と書かれている。一方下の岸は"rational (Verstand)"=合理性(悟性)で、Wissenschaft, Technik =科学(学問)、技術と書かれている。
建築はどちらの岸に近づきすぎても「座礁」して死んでしまう。言わば"建築マインド"を端的に表したようなダイアグラムだ。

Kuhn氏は、IBAのコンセプトはまさにこの図が示す通りであると言う。
IBAの正式名称は「国際建築博覧会 (International Bauausstellung)」であり、その根底には間違いなく"建築マインド"がある。現在のIBAには建築家だけでなく、芸術家、技術者、経済、ジャーナリストなどの様々なバックグラウンドを持った人々が働いている。彼らの多様なプロフェッションを活かし、建設的な地域再生を目指すため、彼らをして感性と悟性を持ち合わせた"建築マインド"のある組織を形作る、というKuhn氏の哲学がこのダイアグラムとともに語られる。

Poverty in Belgium (ベルギーの貧困)


[Photo : Stephan Vanfleteren]
“In First World countries, the new forms of poverty are caused less by material need than by an absence of human contact, by loneliness and isolation. Those who are most at risk are people who are unable to adapt to the constraints of an ever more rationalized working world.”
訳:「先進国における新たな種類の貧困は、物質的な欲求というより、人とのふれ合いの欠如や寂しさ、孤独によって引き起こされる。最もリスクを背負っているのは、これまでより一層合理化された労働社会に順応できない人々である。」 — 解説より
Stephan Vanfleterenはベルギーの写真家(1969年Kortrijk生まれ)。ベルギーの新聞De Morgen紙の報道カメラマンとして南米、アフガニスタンコソヴォなどの紛争地帯を巡る。近年では母国ベルギーの衰退地域(旧採炭地域を含む)を題材にした写真集”Belgicum“を発表した。紛争や衰退という現実の惨状に対する冷静な視線と、そこに生きる人々に残る人間味を写し出す温かい視線を兼ね備えた若い写真家だ。
日本ではまだ注目されていないようなので紹介。

Belgicum

Belgicum