Termin in Kraftwerk Plessa mit Jürg Montalta


[Photo : Yu OHTANI]
元褐炭発電所における住民のミーティング
いわゆる「住民参加」の話し合いだが、Jürg Montalta氏(左から7人目)がリードすることで空気が変わる。
まず彼は参加者を円形に座らせる。お互いの顔がきちんと見えるようにするためだ。この日は30人以上の人が参加したが、彼らが円形に座る風景そのも のが圧巻。話し合いの空間自体が力をもっている。
話し合いの最中、彼は指揮者のように話し合いをリードする。手振り身振りを加えて、話を引き出す。話し合いは、いくつかの約束がある。
1. 人がしゃべってるときには集中して聞く
2. 人のアイディアを否定しない。アイディアを”足す”思考をする。
3. お金の話、実現性の話は、(全員での話し合いの席では)度外視する
4. メモは最小限にして聞くこと・話すことに専念する
ミーティングには毎回微妙な緊張感がある。彼は、人々が街の問題を批評的に眺めるのではなく、主体的にどうすればいいのか住民達が自ら考えるように 流れをもっていく。回を重ねるごとに人々の顔色や目つきが次第に変わっている。
正直、日本の「住民参加」のミーティングを面白いと感じたことは無かった。モンタルタ氏からは沢山学ぶことがありそうだ。

Neue Wache - 戦争犠牲者追悼施設の一つの終着地点


[Photo : hbierau]

ベルリンの目抜き通りウンター・デン・リンデン。雑踏の中に新古典主義様式の建物が一つひっそりとたたずんでいる。名前はNeue Wache(新衛兵所)、1816年にナポレオン戦争の勝利を記念してプロイセン時代に建てられた。オリジナルの設計者はこの時代を代表する建築家Friedrich Schinkel(フリードリッヒ・シンケル)。一次大戦後に内壁を撤去し天井をくりぬくという大胆なリノベーションをしたのは建築家のHeinrich Tessenow(ハインリッヒ・テセノウ)。
Neue Wacheはプロイセン、ワイマール、ナチスそして東ドイツ時代を通じて、国家と戦争、特に国のため「尊い犠牲」になった「国民」を追悼する施設であった。コンセプトががらりと変わったのは東西ドイツが再統一を果たした直後の1993年。東独の崩壊と西独に追悼施設が無かった事から、Neue Wacheをドイツ連邦共和国の戦争犠牲者追悼施設として改めて位置づけることとなった。
現在Neue Wacheは、ガランとした内部の真ん中に「DEN OPFERN VON KRIEG UND GEWALTHERRSCHAFT(戦争と暴力支配の犠牲者のために)」という文字と共に、戦死した息子を抱きかかえる母親の像が置かれている。彫刻はKäthe Kollwitz(ケーテ・コルヴィッツ)の作品。ここでは国家のための死を「英雄」として称えるのではなく、戦争による全ての死者を戦争と暴力支配の「犠牲者」として追悼している。日本を含めた多くの国で、国立の戦争犠牲者追悼施設が自国の戦争犠牲者を「国のための尊い死」にすり替えるための施設と化しているなか、Neue Wacheのコンセプトは、戦争犠牲者追悼施設の一つの終着地点といえるだろう。
建築的にも結構面白い。内部空間はガランとしていて大変簡素だが、空間の大きさと彫刻の存在感のバランスが絶妙な緊張感を生んでいる。彫刻の真上から降り注ぐ光も大変美しく、天気や時間によって様々な表情を見せる。
ただし、建築自体はプロイセン時代のごてごての国家主義イデオロギーの産物である。丸い天窓も、改築当初はプロイセンの「祖国の祭壇」を照らすために設けられたものだ。建築空間はそのままに、現在ではその国家主義イデオロギーを明確に否定する彫刻が同じ所に置かれている。そして空間はそのコアが変わってもはつらつと生きている。よく考えるとグロテスクな話だ。
優等生的な結論としては、建築的な「崇高さ」は、大変魅力的であるけれども諸刃の剣で、魅力的であるが故に理性をもって扱わないとまずいことになる、といったところか。建築と政治の関係は論じるには面白いが、「建築側」からアプローチしているだけでは議論の出口はなさそうだ。

炭坑夫の合唱団(マルガ) - 映画 “Täume der Lausitz” より


Der Chor des Bergmanns in Marga - Täume der Lausitz
炭坑夫の合唱団(マルガ) - 映画 “Täume der Lausitz” より
ラオジッツの都市であるマルガ(Marga)は、ドイツにおける最初の田園都市。すぐ近くの褐炭炭鉱で働く労働者のための都市として20世紀初頭に設計された。(元)炭坑夫達の力強い合唱にあわせてマルガのまちあみみが写し出される。
マルガはIBA Fürst-Pückler-Landの初期のプロジェクトでもある。IBAの目標は、東独時代に遺棄されていたMargaのまちなみの空間的な再生・保存だった。その試みは現在ある程度具現化しており、教会、広場、並木道、が再生されている。

ケヴィン・リンチ『廃棄の文化誌』を読んで考えた事

廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ

廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ

 知らなかった、ケヴィン・リンチがこんな本出していたなんて。不覚だった。
 1990年に出版された原書"Wasting Away"は、リンチの遺稿だそうだ(リンチは1984年没。弟子のM.サウスワースが不完全な原稿を編集して出版した)。
 「廃棄(wasting)」に着目する事でリンチは何が言いたかったのか。資本主義の肥大化、大量生産=大量消費に対する警鐘、その空間的象徴としての廃棄された空間、とかだったら面白くないなぁと思いつつ手に取った本書、表紙をめくって扉に引用されたリンチの言葉に驚いた。
「廃棄された多くの場所にも、廃墟と同じように、さまざまな魅力がある。管理から解放され、行動や空想を求める自由な戯れや、さまざま豊かな感動がある。」(P.2,P.50)

 さらにリンチは、(廃棄された場所のような)管理されていない場所は、しなやかな社会に必要不可欠な要素であるとすら語っている(P.52)。以下のの文章など、まさに公共空間としての廃棄された場所の可能性を示唆していると言えよう。

 「廃棄された土地は、絶望の場所である。しかし同時に、残存生物を保護し、新しいモノ、新しい宗教、新しい政治、生まれて間もなくか弱いものを保護する。廃棄された土地は、夢を実現する場所であり、反社会的行為の場所であり、探検と成長の場所でもある」(P.201)

 こんなにいきいきと廃棄された場所を語る「都市計画(家)の本」などいままで出会った事が無かった。いや、もはやこれは都市計画の範疇におさまるモノではない。なぜなら「廃棄された場所」は、都市「計画」の範疇からこぼれた場所だからだ。『都市のイメージ』で都市に「生きる側」の視点に注目したパイオニア的存在であったリンチは、ここにいたって都市計画という分野を完全に飛び越えた地点から発言している。

 社会からは黙殺されがちな「廃棄された場所」に正面から注目するということは、必ず人の営みの暗部、社会の底に蠢くものを注視する事につながる。それは結構難しい。「新品の場所」にくらべ「廃棄された場所」にはいろんな垢がこびりついているからだ。多くの人々は関わりたくないと思うだろう。しかし都市に関わる者はそこから逃げてはならないし、じつはそこに面白みや希望もあるんだという事を感じさせてくれた本だった。(同時に「廃棄された場所」に<無責任に>惹かれるメンタリティにも、今後は着目していくべきだろうが。)「廃棄された場所」はもっとも社会を映す場所だ。ならば「廃棄された場所」を通じて社会へ働きかける事だってできるはずだ。私はこの本にとても励まされた。
 未完に終わったのは残念だ。「廃棄された場所」を社会にリンクさせるリンチのアイディアをもっと聞きたかった。しかし、この次のステップは我々が担う宿題なんだと考えるべきだろう。やりがいのある宿題じゃないか。

公共空間を"デザイン"する?

 以前、ある勉強会*1で発表した内容を整理し、その後の考えの変化等をあわせて書く。
 当日発表したパワポはHPにアップしていただいている(こちらを参照)。ただし発表から少し時間が経過しているので、いくらか考えや言葉の選び方が変わってきている部分もある。よって今回の内容はスライドの内容と完全に一致する物ではない。この発表で初めて公共空間と産業跡地空間双方への関心に接点を見いだそうとした。


テーマ:「公共空間を"デザイン"する?」

 I.増殖する<公共空間>とそのうさんくささ
 にぎわいの創出、くつろぎの空間、出会いの場といった標語をもって創出される<公共空間>が現在増えている。特に都市部の再開発で増える公開空地は非常に良い例だ。私は現在赤坂でアルバイトをしているので、サカスやミッドタウンの公開空地に人々が集い、特にイベント時にとても賑わっているのをよく見かける。
 しかしこれらの空間に決定的に欠如している性質がある。公共空間(公的空間)について示唆に富む考察をした哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)にヒントをもらおう。彼女は公共空間を、

  • 私的空間と区別される空間
  • 行為の複数性が存在する空間 (他者の現前)
  • 予測不可能性を内包する空間 (他者との予期せぬ出会いの可能性)

と捉えている*2。彼女の視点を借りると、増殖する<公共空間>に対し次のような批判ができよう。

  • 空間の私有化&商品化 (ブランドイメージを壊す因子(人・事・物)の排除)
  • 予期不可能の排除 (敷地内のイベント等は全て仕組まれた予定調和的なもの)
  • 使用者の<標準化> (従順な消費者(あるいは少なくとも無害)である事が求められる)

よって、前述の標語も

  • にぎわいの創出 →コントロールされ、意図的に作り出されるにぎわい
  • くつろぎの空間 →あらゆる人にくつろぎが許されるわけではない
  • 出会いの場 →常に"安心・安全"の確保が優先された上での出会いの場

という条件がつき物であることがわかる。本来公共空間にとってこれらの条件は、致命的な欠陥である。増殖する<公共空間>にうさん臭さを感じる理由は、このような部分にあるのではないだろうか。

 写真:テレビ朝日前広場 快適な休憩スペースも、監視カメラや警備員によって「招かれざる客」を排除する目が光っている。

 II.管理しきれない空間
 では、どのような空間に公共空間としての可能性があるか。I.で見てきたように公共空間としての本来的意味が削がれる要因を一言で表わすならば「空間の管理」である。ならば、可能性は「管理しきれない空間」にあるのではないか。ここでは「管理しきれない空間」の特徴を3つに整理してみる。

  1. 時限的に現れることで管理を免れている空間
  2. 人々のアクティビティにより管理を免れている空間
  3. 空間の物理的特徴により管理を免れている空間

 1.は、例えばデモの空間や花見など、時間や季節限定で無礼講的に現れる空間。都市では、一時的では在るが、既存の<空間の使われ方>のコードを逸脱した空間が出現する事がある。
 2.は例えば駅前広場などで自然発生的に起こるアクティビティによって、人々が作り出す空間。これは人々の空間に対する「ニーズ」が強く、これが空間を管理する力と均衡状態となる場合に現れる。
 3.は例えば河川の中州や高架下など、管理が行き届かないために残っている空間。
 1.2.3.は明確に区分されている訳ではなく、むしろこれらの要因が複合的に成立する事で、管理しきれない空間が生み出されていると考えるべきだ。管理しきれない空間が常に公共空間であるとは言えないが、管理されている空間より多くの公共空間としてのポテンシャルを宿している事は間違いない。

写真:新宿アルタ前広場 予期しないアクティビティが出現する

[補足]
 1.と2.に関しては、社会学アンリ・ルフェーブル(Henri Lefebvre)の「生きられた空間」*3の概念が示唆的だ。ここでは深入りしないが、彼は空間を固定的に存在するものではなく、「社会的に<生産>されるもの」と捉え直すことで、これを施政者・建築家・都市計画者などが作り出す空間(空間の表象)と対峙させている。
 また、近年ではランドスケープ・デザインに関わる人々から、ユーザーが主体的に生み出す空間への注目が集まっている。空間を<設計する>側であるとされてきた人々が、「パブリックスペースは、作り手が与えるものから、使い手に獲得されるものへと変化することが求められている*4。」と述べているのは、注目すべき事だ。
 3.に関しては、「アジール」の概念に共鳴する部分が在るだろう。歴史学者網野善彦は、中州や河原の「無主性」に着目し、そこに「都市的な性格」が発生する契機を見ている*5。公共空間と「無主性」の関係については別の機会にまとめるが、ここでは、中州や河原などの物理的な空間の特徴(孤立性、端性など)が、結果として管理しきれない空間を作り出し、それは歴史的にも重要な役割を担っていたと言う事を指摘したい。
 全体を通して言える事は、公共空間の成立条件として、空間に人々が主体的に関わる事のできる「隙間」の存在が重要であると言う事だ。この「隙間」は、管理の隙間であったり、物理的な意味での(例えば設計されていない余白としての)隙間であったり、権力と権力の拮抗するところに現れる隙間である場合もあるだろう。「隙間」は予測不可能性、複数性を生む重要な要因であると考えている。

Romania BaiaMare Disturbed Landscape





ルーマニア/バイアマーレ(Baia Mare) 2008年3月撮影

 この風景をカメラに収めたい一心で宿を後にし、小一時間歩いてやっとたどり着いた。途中、次々出現するロマの家々の何匹もの大きな犬に吠えられつづけ、ふと狂犬病で亡くなった旅人の話を思い出し、かなりぞっとした。
 石炭と製鉄関係の工場があった場所で、ここは都市の中心部に位置する。バイアマーレでは都市の中心部にこのような広大な荒れ地が広がっている。あとで宿の人にどこへ行っていたのかときかれ、荒れ地で写真を撮っていたと話したら「バカかこいつは」と言った表情を浮かべていた。
 その後宿のおっちゃんが買い物に行くというので、車に乗せてもらって一緒に行くことにした。車は私の通ってきた荒れ地を通り抜け、さらにその奥の荒れ地のど真ん中の、煌々と輝くショッピングセンターについた。


中に入ると、宿のおっちゃんは、次々と知り合いをみつけては世間話に花を咲かせていた。私は外の地獄のようなランドスケープと、中の快適な消費空間のギャップに圧倒されつつも、「そっか、街はここにあったのか」と妙に納得した。

旧東欧諸国へのFDI

 国連貿易開発会議(UNCTAD)ウェブサイトのデータより大谷作成。
 http://www.unctad.org/Templates/Page.asp?intItemID=3198&lang=1
FDI Flows (×1,000,000$)
水:ポーランド 赤:チェコ 黄:ハンガリー 緑:スロバキア 橙:スロベニア